劇団浜松キッド公演「さくら」を観劇に。
新撰組の一員だった男の霊が現代に現れ、いまだ抱える想いを胸に物語を展開していく。
100名弱の会場だったがそれがまた観客と劇との一体感を感じる広さで、大きな劇場には
ないライブ感があった。内容も徐々に引き込まれ、楽しかった。
人は基本、「人前がイヤ」とか「練習しなきゃいけない」とかいう煩わしさをのぞけば
「演じる」という事が好きなはずだ。なぜなら「生きる事」自体が演じていることだから。
”素の自分”など元々ない。何かを覚え、学び、そこから自分のキャラ、役割となる人をその時考え演じている。
それは時に父や母だったり姉や兄だったり先生だったり営業マンだったり・・・とわかったような事を
書いてるが。
「本来無一物」という禅語がある。人は本来何も持っていないものだと。
だがそれを大衆の面前でやるとなると話は違ってくる。
見せる、魅せるための努力と労力、時間、そして度胸、色々なものが必要になる。
繰り返し練習し、直し、少しずつすこしずつ「よりいいもの」へ変えていく。
観客は内容もそうだが恐らくそれ以上に、その人の向こう側にある計り知れない努力や頑張り、
積み上げてきたものに対する感動を感じる。費やしてきた時間と労力に心を打たれる。
だから生身の人間が行うパフォーマンスは人にパワーも与えるのだろう。
こういうパワーはやはり時折、もらう事が必要だな〜。
新撰組の一員だった男の霊が現代に現れ、いまだ抱える想いを胸に物語を展開していく。
100名弱の会場だったがそれがまた観客と劇との一体感を感じる広さで、大きな劇場には
ないライブ感があった。内容も徐々に引き込まれ、楽しかった。
人は基本、「人前がイヤ」とか「練習しなきゃいけない」とかいう煩わしさをのぞけば
「演じる」という事が好きなはずだ。なぜなら「生きる事」自体が演じていることだから。
”素の自分”など元々ない。何かを覚え、学び、そこから自分のキャラ、役割となる人をその時考え演じている。
それは時に父や母だったり姉や兄だったり先生だったり営業マンだったり・・・とわかったような事を
書いてるが。
「本来無一物」という禅語がある。人は本来何も持っていないものだと。
だがそれを大衆の面前でやるとなると話は違ってくる。
見せる、魅せるための努力と労力、時間、そして度胸、色々なものが必要になる。
繰り返し練習し、直し、少しずつすこしずつ「よりいいもの」へ変えていく。
観客は内容もそうだが恐らくそれ以上に、その人の向こう側にある計り知れない努力や頑張り、
積み上げてきたものに対する感動を感じる。費やしてきた時間と労力に心を打たれる。
だから生身の人間が行うパフォーマンスは人にパワーも与えるのだろう。
こういうパワーはやはり時折、もらう事が必要だな〜。
今回、練習の最初の方から、劇団の方々の演技を見せていただき、
その妥協しない姿勢に、頭が下がりっぱなし。
色々な意味で、とても勉強になりました。
人に見てもらうものは、妥協しちゃあいけませんね。
なかなかフツーはできない経験だよね。顔出しの舞台って。
そして何より劇を愛してる人たちの仲にいれたのも大きいね。
一時でも。でもほんまよかったで〜!